1940.6〜1945.1、オシフィエンチム。人間の「死」と鉄道。


ポーランドの南に位置する鉄道の要所、そして、人口約5万人の小さな街、オシフィエンチム(Oświęcim)。
かつてこの都市は、第二次世界大戦下でドイツに占領され、こう呼ばれていました。


…Auschwitz(アウシュヴィッツ)と。


※ このエントリーは、あんまり続きらしくない id:knyacki_j:20060820#p3 のエントリーの続きっぽいモノです。よろしければ先にそちらをごらん下さい。ちなみにどちらも少し重たい内容であることをご留意下さい。



 毎年、夏になるとさまざまな、戦争について考える・追悼するような話題が出て、そのとき、少しだけ「戦争」や「平和」ということを考えたりする時間ができたりします。今年の私にとっては、それは8/20の日帰り広島行と、8/27に放送されたテレビ「TBS世界遺産 特集:アウシュヴィッツ強制収容所」でした。それに感化されて行くには急な話なのですが。


 ポーランドの滞在地、クラクフからバスで約1時間強。
 オシフィエンチムの市街地のほど近くに、アウシュヴィッツ強制収容所(Auschwitz I、Auschwitz II-Birkenau、Auschwitz III-Monowitz*1)はありました。現在、この2つの収容所跡は「国立オシフィエンチム博物館」として公開されています。


 AUSCHWITS 1
 ビルケナウ 正面
 "Auschwitz I"。収容所入口の門には、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という意味のアーチがかかっています。しかし、この収容所から自由になるための出口は、ガス室の煙突の先だけだったと言われます。各建物の中には、囚人の髪の毛・没収された荷物・ガス室で使われた毒薬「チクロンB」の空き缶の山などが並ぶ。そして、"Auschwitz II-Birkenau"。有名な鉄道引き込み線の奥にある監視塔は規模以上の存在感を持ちます。そして、急造のバラック内の劣悪な環境。隠滅のため爆破されたガス室跡。何カ国語もで書かれた犠牲者国際慰霊碑…。


 行く前は「現地はさぞ悲劇の色に満ち、陰惨としていて、重い雰囲気の場所なのだろう、冷静に見ていられるだろうか」などと考えていましたが、実際に現地を訪れると、多くの人で賑わい、あちらこちらで慰霊の花やランプが手向けられ、笑い声こそ聞こえませんでしたが、思想的に「こんないけないことがあった」「ひどいことだ」というのではなく、事実を淡々と述べること、ただただ悲しさを増幅するというのではなく、過去の悲劇を通じて現代に学ぶ、という雰囲気が伝わってきました。そうか、ここは訪れるすべての人にとっての、大きなお墓なのだ、と。


 そうはいっても、ガス室の中をのぞいたり、ユダヤ人を貨車で輸送する資料映像などをみると、やはりどうしても独特な雰囲気に気分がやられてしまうところもありました。
 監視塔からの引き込み線全景
 当時の輸送の様子:パネル展示
 テレビでは当時、ユダヤ人を輸送したという貨車が出ていたのですが、残念ながら展示はされていなかった。しかし、模型や写真での輸送の姿は目を覆うようなものでした。そう、オシフィエンチムが収容所の場所として選ばれた理由は、鉄道の要所であり、当時、ヨーロッパ各地からの輸送に都合がいい、ということだったのです。産業の発展のシンボルである鉄道。時には、人の心の支えとして活躍することもあり、その一方で、殺戮の道具の一端を担うことにもなってしまう。使う人の心一つで、こんなにも扱いが変わってしまうことに、心が痛み、考えさせられました。


 国際慰霊碑前から引き込み線奥を臨む




 参考:TBS「世界遺産」 2006年8月27日 特集:アウシュヴィッツ強制収容所
http://www.tbs.co.jp/heritage/feature/fe_0608_2.html

*1:現存せず